論論論

蒙昧書捨

心が軽くなるとき

私は非常にインドアな性分なので、今回の事態(2020年2月からコロナウイルスによるパンデミックが発生し、自宅にいることが求められた)においても会社に行かなくなったということ以外、生活は何も変わらない。

何も変わらない日常は誰も済まない家のように静かに気づかれることもなく埃を溜めていく。

鬱屈としていく日々も悪くはないのだ。負のフィードバックというものは、正のフィードバックと異なり明確な「死」という到達点を持つ。大切なものもたくさん捨てた。私の存在の7割くらいはこのブログの現在3ページに収まってしまっているかもしれない。

生きて、頑張って生きて、その到達点ってなんだろう。

死の逆は生ではない。死は点であり、誕生も点だ。誕生と死との間に渡された経路が人生だ。だから究極的に生きることの最終目的は再び誕生することだ。それがかなわないから皆、漫然と生きる。漫然と生きるのは、秒速1ミリで閉まる吊り縄に首をかける行為と何が違うのか。

死ぬのは怖い。これは聞き飽きた。

死ぬことは怖くないが、その過程が怖い。これも聞き飽きた。

変わらない日々に鬱積する何か。これが雪崩のようにいつか崩れてしまうんじゃないか。

それが今は一番怖い。

自分に投げかけたい言葉

メンタルサポートを目指した書籍では最終的には「誰にも才能がある」「努力は実を結ぶ」「友達と恋人がいる平凡な日常に感謝」みたいなことが書いてある。

どんな本を漁ってもどこにも自分がほしい言葉が書かれていない。やりたい分野の才能はない。努力はしたくない。友達と恋人はいたことがない。

だから、耳あたりの良い言葉は自分でここに書くことにした。

あなたは堕落した生活から抜け出したいと常々考えているだろうが、それは残念ながら無意味だ。勤勉な生活がもたらすものは繁栄と豊かな時間と、そして社交だからだ。繁栄を維持するためにはさらなる勤勉な生活が必要になるし、社交は億劫だ。だから堕落した生活から抜け出すということはただ地獄に邁進する以外の何物でもない。

本当に欲しいものはやりたいことだけやれる時間だ。それも1日好きな時間、10年くらい期間を開けてしまってもい。上達もせず、誰にも教えることもなく、下手くそのまま死んでいく。そしてそれ以外何も求められない。

でもそんな人生であれば、あなたは確かにやりたいことをやり通した。それが努力によって貫かれたものと何が違うのか?

少し夜ふかししよう。体に悪い食事も取ろう。そしてさっさと死のう。

「明日から頑張る」はもうやめよう。死ぬまで頑張るのをやめよう。

もうやめよう。

労働の喜びと勤労の喜びは全く別のものだ

労働は一般にやればやるだけそれが自分の利益となるものだ。もちろん時宜を得ない労働であれば作った商品が売れず在庫を抱えることになるだろうが、そうなればあなたは労働方針をすぐさま方向転換できる。

勤労はまったく別の形態で。労働しているのは雇用主であり勤労者は雇用主の道具でしかない。道具は正しく動くこと以外は求められない。

私達は実は労働を嫌がったりはしない。ゲームで延々と同じ苦行にもにた作業を続けられるのは、それこそが労働の喜びだからだ。本来は歯止めが効かなくなり、困るような行動。それが労働だったのだ。

テクノロジーが奪うのは雇用ではない。あれは労働を奪っている。それは最初の農業革命から変わらない。労働は忌み嫌われているように見えるが、実際に嫌われているのは勤労という状態だ。成果主義だとか能力主義だとか言ってもそれは変わらない。

これからAIの時代が来ても、第1次産業革命、第2次産業革命のどちらとも同じく雇用が失われることはなく、むしろ増加するだろう。失われるのは労働だ。

新しい時代ではより少数の人間が労働を許される。残った人間は勤労に励み、生まれてから死ぬまでの時間をすべてそのために費やす。教育、医療は勤労できない人間を勤労可能にする仕組みだ。

もう労働は希少な資源だ。一般の人間はそれをゲームの中で満たすしかない。それをどれだけ取り繕っても勤労の喜びなんて生まれない。日曜日の夜に絶望し、金曜日の夜に(あるいは土曜日の夜に)希望を見出す繰り返しの中で漠然と過ごし、40年ほどだったその期間は今はどんどん伸びていく。

労働と勤労のわざとらしい取り違えは、いったいいつから起こったのだろう?