「メアリーの部屋」に関する考察2
以前「メアリーの部屋」について考察を行なった。
メアリーが手に入れる新しい知識は「ある神経を作動させられる感覚」なので、これは文章による記述からの理解とは異なるものだ。
ただ、これを認めることで「記述することによって伝えられない何かがある」ことが肯定されることになる。
私は考えを改める。実はメアリーは新しい知識を「手に入れない」はずだ。
つまり「記述することで伝えることのできない何か」は存在しないと主張したい。
前回の考察で誤っていた点は、メアリーの学習対象を狭く見誤っていたせいだ。
メアリーが色に関する全ての知識を習得する際、視神経の刺激から脳内でどのような現象が起こるかを完全に理解しているはずである。ここで重要なのは、メアリーは色のない部屋の中で色を体感することができるのではないかということだ。
要は、自身の神経に対して意識のみでどこまで干渉できるかという問題になるのだ。
意識を通じて脳内で「実際に色を見た時と同じ状態」を作り出すことができれば、それは色を見たときと全く同じ体験をもたらす。メアリーは色についての知識全てを知っているため、上記の方法が可能であれば既に実行し色を脳内で感覚として得ることができる。
問題は、その「色を見た時の脳の状態」を知っていることが「色を見たときの体験」と一致させられるかという問題になる。
メアリーは自分の脳の色覚に関するあらゆる履歴および将来に対する知識を持っている。(色に関する知識には、全生物の色覚刺激を受けたときの全状態の知識も含まれているため)
確かにメアリーが初めて色を見て手に入れるのは驚嘆や至高体験かもしれないが、それを経過してなおメアリーは自身の部屋に再度戻り記述を追加することができるだろうか。
そこには追加されるべき情報はなく、自身の脳の状態予想通りにことが運んだことが示されているだけだ。
追加されるべき情報がある場合は、そもそもそれは色に関する情報であるため、前提としてメアリーはあらかじめ知っておかなければならない。
つまりメアリーが手に入れたものは「色に全く関係のない知識」なのだ。これは、問題設定を「外に出て初めて色を見たとき」から「隣の人の名前を初めて聞かされたとき」に変えても構わなかった、という結論になる。
色を見ることで「色に関する知識」が追加されると考えてしまうところに誤りがある。
「全て」を扱う際の難しさがパラドックスっぽさを生み出す原因なのかもしれない。