論論論

蒙昧書捨

陰キャと亀、文官、田舎、東洋

陰キャは直接的には根が暗い人間という意味だが、あらゆる人間を指す言葉同様に他の意味も多分に含まれている。

陰キャ陽キャとは違い、暗い分だけどこか「通常とは違う見方」ができるはずなのだ。そしてそれは凝り固まった価値観や広告代理店が推すような一時的な流行には乗らない人間という宣言でもある。

だが陰キャというワードはそれ自体新しい(今ではもう古い感じも否めないが)ものだが、その意味のさせ方は昔からよくあるものだ。

遅れている者が進んでいるものの「忘れ物」を持っているというストーリーだ。

『うさぎとかめ』の童話は誰でも知っているだろう。足の早いうさぎがあっという敵に遅い亀に競争で負けるという話だ。話の中で亀はうさぎを侮ってはいないが、本質は逆だ。足が早いと自負のあるうさぎは大切な「油断の恐ろしさ」を忘れているはずだ、そうでなければならないというものだ。

この話の構造は至るところで見られる。

文官は武官より確かに弱い。武術では到底かなわないが、その裏にある知恵では勝っているはずなのだ。武官が文官を古典を諳んじて言い負かすなど、あってはならない。

田舎者は都会人より確かにダサい。だが、その奥に心の暖かさや人間の絆といったものを決して忘れはしない。田舎の人間が見捨てた人間を都会の見知らぬ人が救うなど、あってはならない。

東洋は西洋より確かに文明の発展は遅れた。だが、西洋の表面的な科学技術の発展よりもずっと深い「東洋の哲学」を持っているのだ。内面の神秘について、西洋が東洋より思想を深めていることなど、あってはならない。

こういう構造はどこにでも偏在している。そして、決して全てが嘘とも言いきれない。

だが現実は恐ろしい。うさぎは足が早く、そして臆病なのだ。亀に勝負を挑む前には十分距離を取り、噛み殺されないようにするだろう。競争が始まれば、あっという間に亀が追いつけないところに行くだろう。休憩するのは身の危険が保証されるそのまで進んでからだ。現実のうさぎは油断も昼寝もせず、亀がゴールする頃には遥かに次元の違う競争で全力を出している。

悲しいが、陰キャは敗者だ。敗者でなければならない。

敗者でなければ、「陰」ではない。

新しい陰キャは、何になるだろうか。非常に楽しみだ。