「メアリーの部屋」に関する考察1
メアリーの部屋とは次のようなものだ。
メアリーという天才科学者は生まれてから現在まであらゆるものに色がない色のないモノトーンの部屋に住んでいる。外に出ることは許されていない。そのため、グレースケールで表される色以外は見たことがない。
だが、メアリーは人間の視神経についての専門家であり色が電磁波であり、どのように眼球の中で視神経への信号に変わり脳へと送り出され処理されるかをどの人間よりも圧倒的に熟知している。
ある日、メアリーが外に出ることを許された。彼女は赤いバラを初めて見る。このとき、彼女は新しい知識を得たと言えるだろうか?
結論としては「言える」だと思う。
彼女がこれまで経験してきた知識というものは視神経がどのように活性化するか、および処理されるかであって自分の脳に色情報が直接書き込まれた場合の知識というものは経験していないので持っていない。
どのように処理されるか、という知識と実際の体験とでは別の知識であるという見方だ。色のない部屋で暮らしてきた彼女の視神経から、色情報が入ったことはない。それは未知の情報にとどまっているままだ。
もちろん彼女自身が色を見たときにどのような順序で信号が送られ、脳で処理されるかは理解している。しかし、メアリーが想定する知識の限界は「バラの色は視覚からどのように処理されるのか」であって「バラの色」のデータ自体は得られていない。
つまり、「自分がバラを見たときの感覚が実際に脳内で処理される感覚」はデータとして取り込んだことのないものだ。どれだけ文献を読んでも、自分の感覚に関するデータを埋めることはできない。
それは逆も言える。
バラの色を見て「綺麗だなー」といっている人は、脳内でその色情報を非常に複雑な神経回路を通じて処理しきっているのだ。だが、その説明を「綺麗だなー」の人はできるだろうか?
このように、それに対するすべての知識と実際の経験とでは埋められるデータが違う。よって、メアリーはバラを始めてみたときに確実に新しいデータを得ているのだ。