論論論

蒙昧書捨

「メアリーの部屋」に関する考察2

以前「メアリーの部屋」について考察を行なった。

 

ocsiban.hatenablog.jp

 

 

メアリーが手に入れる新しい知識は「ある神経を作動させられる感覚」なので、これは文章による記述からの理解とは異なるものだ。

 

ただ、これを認めることで「記述することによって伝えられない何かがある」ことが肯定されることになる。

 

私は考えを改める。実はメアリーは新しい知識を「手に入れない」はずだ。

つまり「記述することで伝えることのできない何か」は存在しないと主張したい。

 

前回の考察で誤っていた点は、メアリーの学習対象を狭く見誤っていたせいだ。

メアリーが色に関する全ての知識を習得する際、視神経の刺激から脳内でどのような現象が起こるかを完全に理解しているはずである。ここで重要なのは、メアリーは色のない部屋の中で色を体感することができるのではないかということだ。

要は、自身の神経に対して意識のみでどこまで干渉できるかという問題になるのだ。

 

意識を通じて脳内で「実際に色を見た時と同じ状態」を作り出すことができれば、それは色を見たときと全く同じ体験をもたらす。メアリーは色についての知識全てを知っているため、上記の方法が可能であれば既に実行し色を脳内で感覚として得ることができる。

問題は、その「色を見た時の脳の状態」を知っていることが「色を見たときの体験」と一致させられるかという問題になる。

 

メアリーは自分の脳の色覚に関するあらゆる履歴および将来に対する知識を持っている。(色に関する知識には、全生物の色覚刺激を受けたときの全状態の知識も含まれているため)

 

確かにメアリーが初めて色を見て手に入れるのは驚嘆や至高体験かもしれないが、それを経過してなおメアリーは自身の部屋に再度戻り記述を追加することができるだろうか。

そこには追加されるべき情報はなく、自身の脳の状態予想通りにことが運んだことが示されているだけだ。

追加されるべき情報がある場合は、そもそもそれは色に関する情報であるため、前提としてメアリーはあらかじめ知っておかなければならない。

 

つまりメアリーが手に入れたものは「色に全く関係のない知識」なのだ。これは、問題設定を「外に出て初めて色を見たとき」から「隣の人の名前を初めて聞かされたとき」に変えても構わなかった、という結論になる。

色を見ることで「色に関する知識」が追加されると考えてしまうところに誤りがある。

「全て」を扱う際の難しさがパラドックスっぽさを生み出す原因なのかもしれない。

 

ボルツマン脳と死ねないこと、そもそも生まれないこと

ボルツマン脳という思考実験がある。

真空の状態からランダムな作用によって、単なる全くの偶然として今の状態と全く同じ状態の脳が無数に生まれうるという考えだ。

これは死とは何かについてとても重要なことを示唆している気がする。

あらゆる地点において私は次の瞬間にはボルツマン脳だったことが発覚し周囲の宇宙空間に散ってしまうかも知れない。

こうして意識の連続のようなものがあるということ自体が不思議な状態だ。

大体が、死んだあとの状態について考察するときに「ボルツマン脳と同じような状態」になって、つまり完全にランダムに発生する脳のうち、「現在の」あなたの直後の時間と言える脳の状態が次のあなたとなる。

 

これは、生まれる前の状態にも言えることなのではないだろうか。

また、ランダムに発生された脳にまで考えを広げなくても

私という意識の連続性は、微小な時間にまで区切るといずれは不連続な状態の推移として現れるはずである。

そうなった場合、意識と意識の間にある意識の関与できない状態の感覚については、私は死んでいるのと全く同じなのではないだろうか。

私は日々生きているという錯覚を得ているだけで、意識の動く時間など24時間のうち、ほんの30分程度かも知れない。

私には、生きていることの不思議より死んでいるという状態の不思議のほうがずっと神秘的だ。

死んでいる人には意識がない。意識がない間は、時間を感じることはない。

ワープみたいな感じで、完全なランダムな感覚に支配される。

次に何が来るかわからない状態が意識の捉えきれる範囲内で全くランダムに明滅してそれに終止する時間が延々と続く。

それが死後の世界なんじゃないかと、ふと思う。

「メアリーの部屋」に関する考察1

メアリーの部屋とは次のようなものだ。

メアリーという天才科学者は生まれてから現在まであらゆるものに色がない色のないモノトーンの部屋に住んでいる。外に出ることは許されていない。そのため、グレースケールで表される色以外は見たことがない。

だが、メアリーは人間の視神経についての専門家であり色が電磁波であり、どのように眼球の中で視神経への信号に変わり脳へと送り出され処理されるかをどの人間よりも圧倒的に熟知している。

ある日、メアリーが外に出ることを許された。彼女は赤いバラを初めて見る。このとき、彼女は新しい知識を得たと言えるだろうか?

 

結論としては「言える」だと思う。

彼女がこれまで経験してきた知識というものは視神経がどのように活性化するか、および処理されるかであって自分の脳に色情報が直接書き込まれた場合の知識というものは経験していないので持っていない。

どのように処理されるか、という知識と実際の体験とでは別の知識であるという見方だ。色のない部屋で暮らしてきた彼女の視神経から、色情報が入ったことはない。それは未知の情報にとどまっているままだ。

もちろん彼女自身が色を見たときにどのような順序で信号が送られ、脳で処理されるかは理解している。しかし、メアリーが想定する知識の限界は「バラの色は視覚からどのように処理されるのか」であって「バラの色」のデータ自体は得られていない。

つまり、「自分がバラを見たときの感覚が実際に脳内で処理される感覚」はデータとして取り込んだことのないものだ。どれだけ文献を読んでも、自分の感覚に関するデータを埋めることはできない。

それは逆も言える。

バラの色を見て「綺麗だなー」といっている人は、脳内でその色情報を非常に複雑な神経回路を通じて処理しきっているのだ。だが、その説明を「綺麗だなー」の人はできるだろうか?

このように、それに対するすべての知識と実際の経験とでは埋められるデータが違う。よって、メアリーはバラを始めてみたときに確実に新しいデータを得ているのだ。

陰キャと亀、文官、田舎、東洋

陰キャは直接的には根が暗い人間という意味だが、あらゆる人間を指す言葉同様に他の意味も多分に含まれている。

陰キャ陽キャとは違い、暗い分だけどこか「通常とは違う見方」ができるはずなのだ。そしてそれは凝り固まった価値観や広告代理店が推すような一時的な流行には乗らない人間という宣言でもある。

だが陰キャというワードはそれ自体新しい(今ではもう古い感じも否めないが)ものだが、その意味のさせ方は昔からよくあるものだ。

遅れている者が進んでいるものの「忘れ物」を持っているというストーリーだ。

『うさぎとかめ』の童話は誰でも知っているだろう。足の早いうさぎがあっという敵に遅い亀に競争で負けるという話だ。話の中で亀はうさぎを侮ってはいないが、本質は逆だ。足が早いと自負のあるうさぎは大切な「油断の恐ろしさ」を忘れているはずだ、そうでなければならないというものだ。

この話の構造は至るところで見られる。

文官は武官より確かに弱い。武術では到底かなわないが、その裏にある知恵では勝っているはずなのだ。武官が文官を古典を諳んじて言い負かすなど、あってはならない。

田舎者は都会人より確かにダサい。だが、その奥に心の暖かさや人間の絆といったものを決して忘れはしない。田舎の人間が見捨てた人間を都会の見知らぬ人が救うなど、あってはならない。

東洋は西洋より確かに文明の発展は遅れた。だが、西洋の表面的な科学技術の発展よりもずっと深い「東洋の哲学」を持っているのだ。内面の神秘について、西洋が東洋より思想を深めていることなど、あってはならない。

こういう構造はどこにでも偏在している。そして、決して全てが嘘とも言いきれない。

だが現実は恐ろしい。うさぎは足が早く、そして臆病なのだ。亀に勝負を挑む前には十分距離を取り、噛み殺されないようにするだろう。競争が始まれば、あっという間に亀が追いつけないところに行くだろう。休憩するのは身の危険が保証されるそのまで進んでからだ。現実のうさぎは油断も昼寝もせず、亀がゴールする頃には遥かに次元の違う競争で全力を出している。

悲しいが、陰キャは敗者だ。敗者でなければならない。

敗者でなければ、「陰」ではない。

新しい陰キャは、何になるだろうか。非常に楽しみだ。

技術の発展について

蒸気、機械、電気、通信、情報ときて、次はどんな技術が発達するのだろう。今話題のAIや量子コンピュータは計算機、インターネットによる情報革命の過程の中に収まるものだろう。

技術はエネルギーの革命とそのエネルギーの使い道の革命に分かれる。蒸気と電気はエネルギーの革命だ。ここには農業も加えられるだろう。そして機械、通信、情報は使い道の革命だ。これらの技術革命は別物といっていいだろう。

全く新しい革命は、それ以前の人が考えもしなかったようなものだ。でも、その萌芽は常に存在している。機械革命の前にからくりはあったし、電気だって好事家の趣味としては観測されていた。

エネルギーの革命はしばらくは来ないだろう。核融合が実現したとしても、それは結局タービンを回して発電する今日の電気エネルギーの効率が極端に上がるだけだ。

次に来るものは、動く動作物の革命だろう。内燃機関のある機械工業によって、徐々に電気で動く機械が作れるようになった。電気で動く機械が作れるようになったおかげで、コンピュータが作れるようになった。そして、現代がコンピュータの技術の枠の中にある。

ということは、次の技術はコンピュータがあるからこそ作られる何かということになりそうだ。大事なのは、自動で作れるようになった部分だ。機械が人間の力(単純な動作としての力)を遥かに超えたところから電気機械が生まれ、そして電気機械が人間の力(精密な動作と延々の繰り返し)を遥かに超えたところからコンピュータが生まれたように、コンピュータが人間の力を遥かに超えるところとはなんだろう。精密さや繰り返しは電気機械の延長でしかない。私の予想は「発明」だ。

製品の発案や、企画、デザインといった物質的なもののデザインから、全く新しい発想の商品を次から次へを生産するような道具が次に超えられる人間の力だと思っている。

ちなみに、次のエネルギーの革命、真の革命は重力と時間だと思っている。だから宇宙に飛び出すのが当たり前になるまでは単に電気を効率良く作れるようになった、というのが繰り返されるだけだろう。

死について

死ぬということは、どこまで厳密に考えられるんだろう。例えば人を原子レベルに完全に粉砕した後、再度同じ場所に原子を構成した場合、その人は一度死んだといえるのだろうか。意識が途切れ、二度と復活しないことを死と定義して、そうしてしまうと宇宙が滅んでまた宇宙が生まれてという過程を無限に繰り返したときに、発生しうるその人の死ぬはずだった予定の「続き」のパターンが存在するとしたら、死なんて存在し得ないのではないか。

この宇宙は1回限りの特別な番号が振られているとしたら、死は存在しうる。ある番号Nの世界で、ある意識が途絶え、その後その宇宙でその意識の「続き」が発生しない場合にその人は死ぬ。

また別のパターンとして、意識が2つある場合はどうだろう。肉体は死ななくとも片方の意識に繋がる神経網を完全に潰し再現するには1からやり直すしかない場合、それは死と呼べるだろうか。

そもそも「生きている」とは何かを考えるべきだった。

「生きている」でなく、かつ「生きている」という状態が過去にあり、それらが同じ存在である時にそれは死んでいると呼べる。

そうすると「過去とは何か」「同じ存在とは何か」という問題が生えてくる。ビシッと決まった話をしたいものだ。

罪について

罪は何によってその人に帰せられるのであろうか。二人しかいない世界での殺人は罪か。自分の書いた紙によって自分が騙された時、自分は嘘つきになるのか。

この世界に罪が残るとしたら、それは罪を犯した証拠によってなるだろう。時間が経過すればするほど、罪を犯したのが誰かあやふやになってくる。それは証拠が物や記憶であるからそうなるのだが、この世の根源的な性質でもある。

将棋をプレイしているとして、片方のプレイヤーがあるタイミングで2歩を行うとする。これを罪とする。しかしそのままゲームを続行するうちに、盤上と持ち駒が罪を犯していない場合にも発生するパターンに戻ったとする。この場合、罪を犯す必要もなくまた現在の盤を見る限りはどこにも罪の証拠はない。この罪の消滅は、将棋が完全な世界だから可能なのだ。

この世界は不完全なので、罪を犯せばその痕跡は宇宙の完全な消滅まで永劫残り続ける。どんな些細な罪であってもあるいは善行も、薄れては行くが消えはしない。時間の経過した極限の世界でようやく、罪と善行がゼロになる。