論論論

蒙昧書捨

労働の喜びと勤労の喜びは全く別のものだ

労働は一般にやればやるだけそれが自分の利益となるものだ。もちろん時宜を得ない労働であれば作った商品が売れず在庫を抱えることになるだろうが、そうなればあなたは労働方針をすぐさま方向転換できる。

勤労はまったく別の形態で。労働しているのは雇用主であり勤労者は雇用主の道具でしかない。道具は正しく動くこと以外は求められない。

私達は実は労働を嫌がったりはしない。ゲームで延々と同じ苦行にもにた作業を続けられるのは、それこそが労働の喜びだからだ。本来は歯止めが効かなくなり、困るような行動。それが労働だったのだ。

テクノロジーが奪うのは雇用ではない。あれは労働を奪っている。それは最初の農業革命から変わらない。労働は忌み嫌われているように見えるが、実際に嫌われているのは勤労という状態だ。成果主義だとか能力主義だとか言ってもそれは変わらない。

これからAIの時代が来ても、第1次産業革命、第2次産業革命のどちらとも同じく雇用が失われることはなく、むしろ増加するだろう。失われるのは労働だ。

新しい時代ではより少数の人間が労働を許される。残った人間は勤労に励み、生まれてから死ぬまでの時間をすべてそのために費やす。教育、医療は勤労できない人間を勤労可能にする仕組みだ。

もう労働は希少な資源だ。一般の人間はそれをゲームの中で満たすしかない。それをどれだけ取り繕っても勤労の喜びなんて生まれない。日曜日の夜に絶望し、金曜日の夜に(あるいは土曜日の夜に)希望を見出す繰り返しの中で漠然と過ごし、40年ほどだったその期間は今はどんどん伸びていく。

労働と勤労のわざとらしい取り違えは、いったいいつから起こったのだろう?